「#現存在 」は「#当事者 」ということについて②
#当事他者論 #問事者 #当事他者 #当事他者探究 #当事他者探Q
https://note.com/haveakiller/n/n8b31f50a5613
出来事の不確かさを受け止めて問いを開始する「問事者」には、二つの側面すなわち受動と能動の側面があります。まず一つには、出来事を受け止める、逆に言えば、出来事に問われる受動的側面があり、またもう一つには、出来事を問う能動的側面があります。 「問事者」は、まず出来事を受け止めて、次に問い始めるといった順序を辿るように思えますが、必ずしもそういうわけではなく、むしろ問い始めることで、出来事を受け止め自覚することができるようにも思います。この辺りは、世界に投げ出された存在が自己を開く、「被投的投企」とも関連しそうです。 話を戻すと、この「問事者」の受動と能動との側面はそれぞれ、「当事
前回の「共同存在」について述べた際、「現存在と他者」を「当事者と当事他者」に置き換えました。それはいわば「現存在」は「当事者」であると言っているようなものです。しかしそれはあながち外れていないのではないかと思います。 「現存在」という言葉を、前回はとりあえず人間の意味で使いましたが、実際にそれが言わんとするのは、存在を問う人です。存在といっても、あまりにも漠然としています。存在を問う人にとってまず存在するのは、問う人自身すなわち「この私」であり、「この私」を問うことを通じて、存在を問うことになります。 「この私」を問うことは、「この私」に纏わる事象を問うことになります。それは