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"「先日も大学生の見学の引率でJNC(旧チッソ)を訪れたとき、『チッソが朝鮮半島のインフラを拓き、今の北朝鮮を支えている』と担当者は誇らしげに話をしていました」
こうした「ロジック」は植民地での加害否定の文脈でよく用いられる。日本は不当な支配をしていない、近代化にむしろ貢献したのだ――と。
けれどもその目的は、戦争遂行や「国体護持」、そこから得られる企業の経済利益であり、地域に暮らす人々を支えるためではない。だからこそインフラ整備の過程から多くの住民を慣れ親しんだ土地から引き剥がし、過酷な労働現場へと追いやったのではないか。こうした明白な人権侵害を脇に置いたまま、「建物や設備を整えてやったからいいだろう」と正当化する態度は、あまりに暴力的ではないか。
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チッソの加害は植民地から引き継がれた――水俣と朝鮮、暮らしから見えるその歴史 - Dialogue for People(ダイアローグフォーピープル/D4P)
https://d4p.world/33600/
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"1911年に帝国議会で可決され、16年に施行された「工場法」には、不十分ながら公害規制の規定が存在したものの、植民地朝鮮にはそれすらも適用されなかった。「安価な労働力」として扱われた朝鮮人労働者への法的庇護は極めて乏しい上、チッソは朝鮮内の工場全てで、排水を浄化することなく垂れ流していたとされる。
1939年の現地の報道(※2)では、周辺での呼吸器疾患や海産物死滅の問題が伝えられており、公害が発生していたことが指摘されているが、実態は判然としない。つまりダム建設にせよ工場稼働にせよ、「内地(日本国内)ではとてもできないこと」を、植民地朝鮮では平然と行えていたことになる。
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チッソの加害は植民地から引き継がれた――水俣と朝鮮、暮らしから見えるその歴史 - Dialogue for People(ダイアローグフォーピープル/D4P)
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"植民地支配下の朝鮮は日本への米の「供給源」とされ、増産が図られており、大量の化学肥料が求められていた。1920年代後半、チッソはその朝鮮へと進出し、水力発電所、そしてその電力を用いた工場が建設されていく。用地の確保は朝鮮総督府の権力を背景に、官憲も一体となって暴力的に行われたとされる。
また、日本国内で一般的であった水路式発電とは異なり、「流域変更方式」(赴戦江・長津江などで行われた川の流域を変え高低差で水を落とす方法)は、下流の環境を大きく変えてしまう手法であり、大ダム方式(水豊ダムで取り入れられた、川途中の流れを塞ぎ水を落とす方法)は崩落などの危険度の高いものであった。建設過程でも、過酷な現場で多数の死者が出たとされる。
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チッソの加害は植民地から引き継がれた――水俣と朝鮮、暮らしから見えるその歴史 - Dialogue for People(ダイアローグフォーピープル/D4P)
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"チッソは後に確認される水俣病の原因企業だが、同社の加害は日本国内だけに留まらない。むしろ水俣病事件の「源流」をたどるためには、植民地朝鮮でのありようを振り返らないわけにはいかない。
水俣病センター相思社職員の永野三智さんはこう語る。
「先日、水俣の案内をしているとき、“水俣はチッソの城下町”と私が語ると、隣にいたチッソの元労働者の方が、『水俣はチッソの植民地。朝鮮帰りの幹部たちに倫理観なんてなかった。俺たちのことを奴隷のように扱っていた。それが水俣病を起こしたんだ』とおっしゃったんです。『朝鮮半島でやっていたことをそのまま繰り返しただけなんだ』――と」
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チッソの加害は植民地から引き継がれた――水俣と朝鮮、暮らしから見えるその歴史 - Dialogue for People(ダイアローグフォーピープル/D4P)
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:bluesky: 安田菜津紀 Natsuki Yasuda (@natsukiyasuda.bsky.social)
2025年10月24日 12:55
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大切な声を頂いて、書きました。長い記事ですが、ぜひ読んで頂けたら。
水俣病事件を引き起こしたチッソは、植民地で危険なダム建設など「日本ではとてもできないこと」を続け、公害も引き起こしていたことも指摘されています。その犠牲は今も顧みられていません。
日本の敗戦後、「朝鮮人はぼろくそ使え」という差別のまなざしは、水俣へと向けられました。
一方、水俣で生きる朝鮮の人々は、防空壕に暮らしたり、闇酒を作りながら生活をつないでいたと、当時を記憶する人々は語ります。
チッソの加害は植民地から引き継がれた―水俣と朝鮮、暮らしから見えるその歴史
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