用語「ロック」と「ロックンロール」の違い。両者の指すものを懐旧感の有無あるいは強弱で分けることができないか。
チャック・ベリー、プレスリーの懐旧感。
昔の歌だから懐かしいのではなく、彼らの音楽は発売時からすでにノスタルジックだったのではないか。

『ブランキ殺し』第2稿から第3稿への移行は、内なるノスタルジーからあからさまなノスタルジーへの移行? 第3稿が読めてないので、宿題とする。

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戯曲『ブランキ殺し上海の春』第2稿のト書きにある「ロックンロール」は、具体的には何だったのか。
上演時に流された曲が何かは知らないが、チャック・ベリーの「ロックンロール・ミュージック(Rock and Roll Music)」かそれに類するものではなかったか。ある時期までロカビリーと呼ばれていたジャンル。

1957年、チャック・ベリーの「ロックンロール・ミュージック」が全米8位のヒット。
1964年、ビートルズがアルバムの1曲としてカバー。
1965年-66年、ザ・ピーナッツ、西郷輝彦、広田三枝子、尾藤イサオらがカバー。
1966年、ビートルズの日本武道館公演で1曲目に演じられる。
1976年6月、ビートルズの2枚組ベスト・アルバム「ロックン・ロール・ミュージック(Rock 'n' Roll Music)」に、2枚目の第1曲として収録。
以上、Wikipedia の「ロック・アンド・ロール・ミュージック」項による。
1976年12月、「ブランキ版」初演。

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佐藤信の戯曲『ブランキ殺し上海の春』には3種の版があるという。
そのうち第2稿「ブランキ版」の初演は1976年(昭和51年)、最終稿「上海版」の初演は1979年(昭和54年)。
両版は『喜劇昭和の世界 3』に収められている。

両稿における音楽の使われ方。
第2稿「ブランキ版」のベースは社交ダンスのためのピアノ音楽。おおむねワルツ。時にタンゴ。
対して激しさを担うロックンロール。この音楽はある人物のヘッドフォンから突然に大音量で漏れだす。また、ヘッドフォンを付けた虎が空を駆ける場面でも流れる。ロックンロールが流れ出す場面には、いつも老人(じつはブランキ)が居合わせる。

最終稿「上海版」はタンゴにはじまり、タンゴで終わる。とくに「ラ・クンパルシータ」。
途中では、革命歌の「ラ・マルセイエーズ」、「インターナショナル」、初期のスイングジャズ、テンポの遅いブルース、メリーゴーランドの伴奏を思わせる素朴な旋律のレコードなど。全体に古めかしく。

両稿に通じる懐旧感。やりそこなった感も併せ持つ。

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佐藤信『ブランキ殺し上海の春(ブランキ版)』を再読。いちおう枠組みは把握できたとする。
登場人物は全員、19世紀のパリから20世紀の上海へ回帰してきた者たち――という理解でいいだろう。彼らのうちの一部はかつてのブランキ本人、一部は配下、その他周辺の者たち、ごく一部はブランキの敵対者。

最終章「終曲」の春日の台詞。
「いまこの瞬間、無数のぼくたちが、無数の橋の上で、無数の死体を前に途方にくれているんです。ぼくたちは間違っている。無数のぼくたちはみんな間違っています……」
ブランキがパリでやりそこなった革命は、ここ上海でも実らなかった。ぼくたちは間違っている……

宿題、なぜ上海か。
なぜ彼らは上海に回帰してきたか。言い換えれば、作者はなぜ上海を選んだか。
ブランキ版の最後の台詞も春日が言う、誰にともなく。
「ねえ、ここは上海ですか?」
この問の意味もわからない。
作者はドラマの場を上海に設定し、登場人物たちも上海租界を歩き回ったのだから、ここは上海のはずなのだが。あるいは、「いや、ここは東京」、そんな答えを期待してるのだろうか。

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「ブランキ版」の次の章は「15 プレリュード」。なにゆえ今さらの前奏なのか。

硝子屋が「ムッシュウ・プランタン」と伯爵に呼びかける。
伯爵の返事は、「忘れたな、何もかも忘れちまった」

ブランキが率いた革命組織「四季協会」は4つの大隊から成り、プランタン=春はその一つ。硝子屋の呼びかけに伯爵は「忘れた」とは答えたが、自分が「プランタン」であることは否定しない。ここ上海で「伯爵」と呼ばれている人物は、かつてブランキの指揮下にいた「ムッシュウ・プランタン」、すなわち「春大隊」の長が回帰してきて、かりに伯爵と名乗っているのだろう。
とすれば、伯爵の前身を知る硝子屋も、かつてブランキの周辺にいた何者かであって、それがここ上海に回帰してきたに違いない。

なぜ、今さらのプレリュードか。この章あたりから登場人物たちの正体=前身が見えてくるからではないか。

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窓が違う。こんなに大きくて、格子もはまっていない。老人=ブランキは、自身の今いる部屋がトーロー要塞の牢獄とは異なることに気づく。そのことの意味を老人も戯曲も言葉に出しては言わないが、この「異なる」ということこそが、ブランキが『天体による永遠』で唱えた永劫回帰の眼目。

永劫回帰は同じ出来事を繰り返すが、異なる様相でも出来事を繰り返す。永劫回帰は分岐する。様相は分岐のたびに変化をかさね、現に1881年に死んだブランキが半世紀を経てここ上海に回帰してきたのだし、さらに幾つもの分岐と変異を繰り返して、いつかどれかの地球上で私ブランキは革命を成し遂げるだろう。――それが彼の永劫回帰論の夢。

あるいは、これも明示はされてないが、繃帯も回帰してきたブランキの一人か。ここまでのところ、繃帯は道端で拾ったピストルで頭の周りの虻を追い払っただけだが。

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小部屋。牢獄のような。
ト、寝台で繃帯と少女が裸で抱き合い、眠っている。春日の姿はない。
別のひとり……老人。鞄。燭台をもち部屋の中を興味ぶかそうに、仔細に観察している。
老人「何もかもそっくりだ。花崗岩の壁……不規則な凸凹だ。それぞれがそれぞれの形と色と持続……そして、生命をもった結晶をつくっている。ピラミッド形、円錐形、十二面体」

『ブランキ殺し上海の春(ブランキ版)』は全31章、上はその中盤「14 窓」冒頭のト書きと台詞。
老人はブランキ。部屋を見回して、自分がとじこめられていたトーロー要塞の牢獄を思い出し、酷似の様相を数え上げる。やがて鞄から天体望遠鏡を取り出し、組み立ててのぞきはじめるが、見えているのは部屋の壁だけらしい。

寝台から繃帯が起き上がり、服を着はじめる。老人は振り向くが、たがいに相手の存在を気にするふうではない。
少女が目をさます。繃帯はテーブル上のピストルを取り上げ、止める少女を押しのけて部屋を出ていく。
老人が望遠鏡から目を離してつぶやく。「そうか……窓が違う。こんなに大きくて、それに格子もはまっていない」

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たとえば、さっきまで俺がほっつき歩いてた、楊樹浦のユダヤ人街だ。白ペンキばかりがけばけばしいバラック建ての間から、ふいに、およそ辺りの様子とは不似合いな、甘ったるい花の香りが漂ってきたりする。つまり、この町の春にはそんなところがあるんだ。うっかりしていると、ぼんやり同じところに半日も佇んでいたりする、人のこころを空っぽにする何かが、春になるとこの町をすっぽり包みこむ。そんな町に、懐に入れたピストルのちょっと手ごたえのある重さ……俺は嫌いじゃない。

『ブランキ殺し上海の春(ブランキ版)』から、繃帯の台詞。繃帯は顔の半分を汚れた繃帯で巻いた男。道端で拾ったピストルで頭の上の虻を撃ったところ。

虻を撃ったのは、紙弾頭のおもちゃの弾丸だ。実弾は……またどこかで拾えるだろうか?

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