《それぞれの俳優は彼が何者であるかを直ちにはっきりとわかるような衣裳と顔塗りで舞台上に現れる。ごまかしの余地はない。》

これもミショー『アジアにおける一野蛮人』からの引用で、中国の演劇についての論。
「顔塗り」とあるが、これに「仮面」を加えて解してもいいだろう。顔塗り=隈取りは仮面に由来するとも言う。それが事実なら、仮面こそが演劇本来のものであり、太陽劇団がイタリア発祥の仮面劇「コメディア・デラルテ」を援用・流用して活動を開始したことは、演劇の根源にかかわる選択ということになる。
演技とは、役者が自分ではない者として振る舞うこと。ならば、仮面を着けることは、最も直截で容易な演技術ではないか。

#道化と革命 #仮面 #アンリミショー

引き続き『道化と革命』から。
p.98に、同じくミショーの『アジアにおける一野蛮人』からとして次の引用。

《大空間が必要な場合には、彼はただ単に遠くを眺める。地平線が存在しなければ誰が遠くを眺めるだろうか? 女が着物を縫わねばならないときには、彼女は直ちに縫いはじめる。ただの空気が彼女の指の間をさまよう。けれども、観客は実際の縫い物の感覚を経験する。(なぜなら、誰がただの空気を縫うだろうか?)。針は一方から入り、反対側へようやくのことででてくる。そして観客は現実以上の感覚を味わいさえする。》

ということなら、p.99の写真は針に糸を通してる演技なのか。いや、そうでもないか。巻末の説明には、《中国演技様式の酒屋の女主人》とあり。
それはともかく、上のくだりをどう理解するか。
舞台はシンプルに作れということだろう、装置も演技も含めて。
縫い物をするのに、針や糸はいらない。俳優はただ縫い物の動作をすればいい。
地平線の存在を示すには、俳優はただ遠くを眺めればいい。実際に地平線を容れられる大空間を用意する必要はない。

#黄金時代 #道化と革命 #アンリミショー

『道化と革命 太陽劇団の日々』を読む。
p.97-98にアンリ・ミショーの『アジアにおける一野蛮人』からとして、8件のパラグラフが引いてある。以下はそのうちの最初の2件。

《ひとり中国人だけが演劇表現の何たるかを知っている。ヨーロッパ人はもう長いこと何も表現していない。ヨーロッパ人はすべてを見せる。一切がそこ、舞台上にある。あらゆるものが何一つ欠いていない。窓から眼にする風景でさえも。》

《反対に中国人は、彼らが必要とする度合に応じて平野を、木々を、梯子などを意味するものを〔舞台上に〕置くのである。》

#黄金時代 #道化と革命 #アンリミショー