東京に残してきた話。
ストラテジック・エッセンシャリズム(戦略的本質主義)というもの、例えば男女二元論を否定しながら女性差別に抵抗せざるをないクィアがこの立場に立って自発的に例えば「フェミニズム運動に連帯する」と宣言するとか合流するということがあったとしたって、もともとシスジェンダーを前提にして言動を行ってきたフェミニズム運動が特段の明示的な内部的な反省の共有もないまま「フェミニズムは全てを、"新たな存在"をも包摂可能だ」とかは言っていいことではないしそうすると抑圧とか脱色っていうものになるしフツーに支配では?っていうのを前提としたかったんだけど噛み合わず残念でした。

完全に無謬な立場というものはないが、せめてポジショナリティはなるべく俯瞰できた方がよいしそうでないから色々無用な被害者意識と対立が生じてるんでしょってことを考える人が増えないと男性中心主義のマッチョ運動だろうがシスヘテロ日本人中心のフェミニズム無謬主義だろうが抑圧側に回ってしまうことになるというのはあんま変わんないと思います。
マイノリティとして入ってみたけど空間に傲慢さを感じて離脱するという展開は減らしたいですよね。

ただ主張が薄いってだけの自律した存在を勝手に十分同化してるとか組織に忠誠を誓った奴隷だとかみなすのはやめたほうがいいと思いますね。

「トランス女性は女性です」というシスジェンダー中心のフェミニズム運動による「包摂」は、トランス嫌悪を隠さないこれまたシスジェンダー中心のフェミニズム運動へのカウンターという側面があるため全く否定する立場にはないのだが、なんとなく求められない状況で自発的にこのフレーズを言い切ることには淀みを感じている、というのもこれなんだろうな。

シスジェンダー女性とトランス女性、ノンバイナリーは異なる経験や状況を持つだろうし、数の力によって細かい違和感や個人の感覚を覆い隠すような機能を持つこともあり得てしまうのかなあという懸念。

確実にどのような立場からでも言えるのは「トランスの権利は人権だ」ということではないかと思っています。