何回言うねんなんだけど、キングの『黒人はなぜ待てないか』はほんとみんな読みましょうね。
キング自身の限界というものももちろんあるわけだけれど、それはある意味でこのテクストをキング自身が裏切ってしまったことに由来するんだと思うんだよね。そして、越えようとする前に殺されてしまった。

去年蕨でワタケンへのカウンターに参加して以来、子どもが生まれてくれてからはデモやカウンターには行けていないんだけど、当然そこでは、おれも含めたカウンターの人たちは、全力でワタケンたちに「帰れ!」って言うし、どぎつい表現で馬鹿にしたりもする。
ヘイトデモへのカウンターやってると、デモ隊ではない人から、外国人多すぎじゃん、あの人たち言ってること間違えてないよ、みたいに絡まれることもままあり、そういうときは、暴力的なトラブルにならないように工夫しながら、なんとか対話してみたりすることもある。
カウンターの人たち個々と話してみると、みんなおんなじように、職場で、家庭で、友人と話していて、突然現れる差別的な言葉や振る舞いに、どう対応していいか悩みながら、精一杯の仕方で抗ってたりする。

そうした多面性があるのは人間として当然のことであって、みんないちいち言わないけど、相手の性質や場のコンテクスト、その他もろもろを考えながら対応しているし、そこに見られる創意工夫はとても大事で、尊敬すべきものだと思う。

「言い方」についてのある種の議論には、そうした現実に対する認識、差別を止める側だけでなく、差別する側も含めた人間というものの複雑性への認識が、根本的に欠けているように感じる。

あと、C.R.A.Cのせいで差別が過激化したみたいなのは、歴史の認識として端的に誤りだと思う。たとえば、徐京植ソンベがリベラル派も含めた日本の保守化の潮流を批判しだしたのはたぶん80年代終わり頃から。それはさすがに徐京植一流のカンのよさによるものだと思うけれど、せいぜい2010年代から活動を始めたC.R.A.Cは、90年代から一貫して続く日本の右傾化の動きの原因ではありえないよ。
どんだけC.R.A.Cの影響力を大きく見積もっているのかと思うし、日本で今起きていることの重大さをどんだけ軽く見てるのかとも思う。
まあおれもいろいろ言ってるけど、みんながあれこれ考えたり悩んだりするのはふつうにわかるし、自分の場でできることをやるしかないんだから、いろんなアプローチでやってみればいいんじゃないかって思ってもいるよ。
批判はし合えばいい。それでも、差別的な社会構造という同じ敵と戦えるよ。
ただ、できるだけ同じ敵を見て隣に立っている「他者」を踏まないようにしてね。
できるだけ、以上のことはできないにしてもね。