「わからないもの/知らないもの が怖い」という感情は生まれてしまった以上確実に自分の中に「ある」ので容易に消せないが、それは結局「自分(と自分が属する大きなコミュニティ)にとっての『異物』を怖がること」と同じことですよね。そのときに感じている胸のザワザワをマイルドに「不安」と表現する向きがあるけれど、はっきり言ってそれは「恐怖」であると言っていいと思います。
そしてその「恐怖」は暴力性をもつものである、という点がどうも透明化されていると感じます。
相互理解ができないから怖い、何を考えているかわからないから怖い、その感情が排外への第一歩ですが、「この恐怖は仕方のないことだ」と自分を擁護してしまうことは排外にずぶずぶと足を踏み入れた瞬間だと考えています。個人で向き合えることなのか、行政が環境を整えねばならないことなのか、それらはその時々によって当然異なるはずだけれど、ただ自分の中の怯えには罪悪感を覚えるべきである、と思っていますし、正当化した瞬間に坂を転がり落ちる。自分が「被害者」になる瞬間であるから。

相手は何もしていなくても、ただ「自分にわかるような存在でいてくれない」ということが「不親切」という不満となり、積もり、他の「不親切」が目につき始め、それを補強する情報が甘く吸い込まれ、憎悪となり、個人の具体性を消し、属性を加害者に仕立てあげてゆく。恐怖を抱いているから自分は被害者だ、という公式を崩さなくてはいけないと思います。

過ぎちゃったけど、世界難民の日によせて。