関係代数もバックマン線図も哲学的存在論に付け入る隙を与えてしまうだろう。関係代数におけるタプル(組)とは何なのか。ネットワークモデルにおける生起とは何なのか。実体関連モデルにおける〈実体〉は哲学的に受け入れ可能な代物なのか。これらの疑問には情報の哲学が答えるのだろうか?
関係代数もバックマン線図も哲学的存在論に付け入る隙を与えてしまうだろう。関係代数におけるタプル(組)とは何なのか。ネットワークモデルにおける生起とは何なのか。実体関連モデルにおける〈実体〉は哲学的に受け入れ可能な代物なのか。これらの疑問には情報の哲学が答えるのだろうか?
フロリディが創設する「意味論的情報」は、シャノンの通信理論における情報量概念とは異なるものとして提示されている。シャノンの情報量概念は統語論的なものであり、〈意味〉を捉えられていないというわけだ。しかし分布意味論の成功が示唆するところによれば、統辞論と意味論の分離は自明ではない。概念分析による情報概念の分節化ーー環境的情報、指令的情報、叙述的情報ーーは、さながらジョン・サールの言語理論やオースティンの語用論、分析哲学の伝統の外ではパースの記号の分類を想起させるところがある。この分節化は複雑性を帰結する。しかし、この分節化はなんのための分節化なのだろうか。
情報組織体(inforgs)が等しく倫理的対象になるという考えは、ブリュノ・ラトゥールのアクターネットワーク理論を想起させるものだ。これは、情報倫理の理論的射程の広さを示唆するものと言えるだろう。人間中心主義は生物中心主義に拡大され、生物中心主義は情報中心主義に拡張されている。