https://www.pixiv.net/fanbox/creator/188950/post/518501
第4章までは全体公開です。「近世大名は城下を迷路化なんてしなかった」という主題の証明は第4章までで語り終えているのでご一読ください。
https://www.pixiv.net/fanbox/creator/188950/post/383229
### 4.5.6. 小野晃嗣(小野均)『近世城下町の研究』(1928年) 近世城下町の研究 - 国立国会図書館デジタルコレクション http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1281153 ※以下、この項で引用するテキストの引用元は註釈がなければ上記 蒲生氏郷町割ヘタ疑惑検証のときに、この本の近江日野についての言及を少し取り上げました。これまた名著です。城下町研究の第一歩となった一冊です。昭和三年刊。ついに昭和まで到達しました。 #### 4.5.6.1. 日本に放射状街路の城下町は存在するのか、しないのか 小野氏はまず、
### 4.5.5. 大類伸『城郭之研究』(1915年) 城郭之研究 - 国立国会図書館デジタルコレクション http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/953295 ※以下、この項で引用するテキストの引用元は上記 再び、大類伸氏の著作です。いま読んでも、これが名著であることは疑いようもありません。まさに城郭研究界の鉄腕アトム(自分にとってわかりやすいたとえを使う奴)。 城下の防御 日本の城郭は前にも述べた如く武士を中心としたもので、商人工匠の輩は武士の付属物たるに過ぎない観があつた。従て城下町あつて始めて其の価値を認められたもので
4.5. 江戸時代後期~昭和 ――誤解と空想の防衛術が定説へ…… ここからは江戸時代後期(1790~)の文献と明治末から昭和の文献を見て行きます。 ん?明治末?い……維新の頃は……? そうなのです。明治維新では日本の城が無用の長物として疎んじられました。 それと同様に日本の伝統兵法と和城の築城術は、学問の世界でも超不人気ジャンル化したようなのです。この時期の和流兵法・和流築城術の文献の少なさは壊滅的でした。 若者の江戸軍学離れがあったのです。文明開化の頃、和流軍学者や和城の研究者なんて役に立たないものを研究してる変人扱いだったのでしょう。 現役の軍防技術論ではなく、
note.mu に移植しました。一連の論の中で、もっとも重要で、筆者的に盛り上がってる部分です。
#近世大名は城下を迷路化なんてしなかった :第4章(4)それは盛岡砂子から始まった|mitimasu|note(ノート) https://note.mu/mitimasu/n/n550c8b418510
## 4.4. それは『盛岡砂子』から始まった ――街路屈曲防衛術の論拠は江戸時代中期の巷説 ### 4.4.1. 一次ソースの名は『盛岡砂子』 さて!さて!さてさてさて!やってきました桶狭間。ここが勝負の天王山。心しずめて賤ケ岳。天下分け目の関ケ原。ついに本丸天守閣。 天守閣って言い方は明治以降だ?うるせえやい、七五調にしたかったんじゃい。細けぇこたァいいんだよっ! いよいよ、街路屈曲防衛術の総本山に攻め入ります。 出典、出典でーす。みなさん、長らくのご乗車ありがとうございました。 『盛岡砂子』が街路屈曲防衛説の根拠だと、すでに知っていた賢明なる読者の方、ここまで
## 4.3. 江戸時代中期(1690年~1779年) ついに出現する、防衛のための居住区街路屈曲という概念 ほとんどの都市で基本的な町割が終わってしまっている時代です。 すでに松坂古謡で見た通り、この時代に、ついに 「(城地ではない)居住区の街路を屈曲させて防衛用途とする」 という概念が出現します。 ともあれ、時系列順に文献を追っていきましょう。 ### 4.3.1. 長沼流兵法:『兵要続録』(1690年頃) 東京国立博物館デジタルライブラリー / 兵要続録 : 巻之1,2 https://webarchives.tnm.jp/dlib/detail/105
note.muに移植しました。これまた pixivFANBOX では5回に分けたものを一本にまとめています。
#近世大名は城下を迷路化なんてしなかった :第4章(2)蒲生氏郷は町割下手ではなかった|mitimasu|note(ノート) https://note.mu/mitimasu/n/n5fc50757ea1a
## 4.3. 汚名返上!蒲生氏郷は町割下手ではなかった ### 4.3.1. 蒲生氏郷は町割下手だった? さて。江戸時代中期に行く前に、宿題をひとつ片づけたいと思います。蒲生氏郷です。 天才武将にも弱点があった。それは町割が下手ということ――そんな巷説がすっかり定着してしまった蒲生氏郷の町割を検証します。 彼は、本当に町割が下手だったのでしょうか。 いま、ネットに広く流布している氏郷伝説は、こうです。 592 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/05(木) 18:52:03 ID:GjQEsFYc氏郷さんの町作り♪ 蒲生再生工場の名を戴くな
note.mu に移植しました。pixivFANBOX で16回に分けたエントリをひとつにまとめたので、長文ですが読み返すのには便利かもしれません。
#近世大名は城下を迷路化なんてしなかった :第4章(1)江戸時代前期|mitimasu|note(ノート) https://note.mu/mitimasu/n/n04ece8652e6e
# 第4章 史料文献調査 防衛策として街路屈曲説が現れるのは江戸時代中期から ## 4.1. 文献調査の必要性について 仮に、 「大名は防衛のため城下を迷路化させた」 というのが真実で、全国的にどの大名も実践した定番の手法であるならば、その証拠は当然に当時の文献に見いだせなければなりません。 「いや、それは軍事上の秘伝だから、おいそれと文書に記されるわけはない」 と、あなたは反論するでしょうか? しかし、都市計画より重要度の高い秘伝だったであろう、虎口の作り方、陣城の布陣などが、江戸時代に入って50年もしないうちに、兵法家によって講義されていたのです。 兵法の秘伝奥義のた
## 3.5. 集計結果と地図調査の結論――城下町と非城下町に極端な差はない。そして、やや城下町の方が道が良い。 ### 3.5.1. 集計結果一覧 城下町の集計結果を表 3.5.1と表 3.5.2に、非城下町の集計結果を表 3.5.3と表 3.5.4に示します。 表 3.5.1: 城下町集計結果(1) 表 3.5.2: 城下町集計結果(2) 表 3.5.3: 非城下町集計結果(1) 表 3.5.4: 非城下町集計結果(2) ※注:表 3.5.3と表 3.5.4について * 地名のあとの距離は、その距離を一辺とする正方形範囲の調査を意味します *
### 3.4.7. ■九州編 #### 3.4.7.1. 小倉城(福岡県) 図 3.4.7.1: 小倉城 こんなん笑うわ。卑怯!これは卑怯! 「大名が防衛のために城下を複雑化させたって本当?」 と調べてる人間に、小倉城の東半分を突きつけるのは卑怯と言うほかないでしょう。笑うしかないじゃないですか。 一方で西半分、主郭の存在するエリアはどうでしょう? 上級武士の侍屋敷は二の丸にあります。ここは完全に城地であって、方格設計はありません。 三の丸には侍町が出来ています。東側の侍町より1区画が大きいので、同じ侍町でも西側の方が格上の、中級武士エリアといったところでしょう