https://www.npbhub.com/556916/ 阪神ドラ1は「なかなかこんな投手いない」 社会人入りで成長…担当が語った”素質” | Full-Count ##プロ野球 #article #ORIXBuffaloes #PACIFICLEAGUE #PICKUP #オリックス・バファローズ #パ・リーグ #熊野輝光
阪神ドラ1は「なかなかこんな投手いない」 社会人入りで成長…担当が語った'素質' | Full-Count

熊野輝光氏は2024年に阪神スカウトを退任…最後にドラ1、2位を担当した 元阪急・オリックス、巨人外野手の熊野輝光氏は2025年シーズン、四国IL・香川オリーブガイナーズの監督に就任した。2013年から務めた阪神スカウトを、2024年で契約満了により退任。最後の年にドラフト1位・伊原陵人投手(NTT西日本)、同2位・今朝丸裕喜投手(報徳学園)を担当してスカウト生活は区切りとなった。「置き土産ができたかなって感じですけどね」と笑い「今は香川の選手をNPBに入れることが一番です」と言葉に力を込めた。【PR】盗塁王・近本光司を足元からサポート 中高生に勧めたい新スパイク「NEOCONNECT」 熊野氏は香川・志度商(現・志度高)から中大に進み、社会人野球・日本楽器(現・ヤマハ)時代の1984年にはロサンゼルス五輪野球日本代表の主将を務め金メダル、同年ドラフト3位で阪急入りした。プロでは1985年パ・リーグ新人王に輝くなど活躍。1994年限りで現役引退した後はオリックスのコーチ、スカウトなどで力を発揮し、2013年から2024年までは阪神スカウトとして才木浩人投手らの獲得に尽力した。 そんな名スカウトは阪神での“ラストシーズン”に左腕・伊原、右腕・今朝丸のドラフト1、2位を担当したことでも話題になった。「伊原は商大(大阪商業大)の時も担当ではなかったけど見ていました。NTTに入ってからは商大の時よりも全然力強くなった。ボールも速くなった。(カブスの)今永(昇太)みたいな感じ。右バッター、左バッター関係なく、インコースに思い切って投げられるんで、なかなかこんなピッチャー、いないなと思いましたよ」。  今朝丸については「僕は(オリックススカウト時代に担当した)金子(千尋投手、現・日本ハムファーム投手コーチ)に近いと思う。変化球も含めて、ちょっと柔らかさがあって、切れのいいボールで勝負、って形かなと思いますけどね」という。「どっちかというとあまり動じないタイプ。甲子園にも出ているし、やっぱり場慣れしていますよね。ホント、楽しみですよ」と笑顔で声も弾ませた。 阪神は契約満了での退団。「ホント12年もいさせてもらってね。10年が経った時に僕は65(歳)だったんで、それで終わりだろうなと思っていたんですけど、2年もオーバーさせてもらったんでね」と感謝の思いを口にした。「最後に(伊原、今朝丸を担当して)置き土産もできたかなって感じですかね。彼らが出てきてくれたらいいんですけどね。才木もそうですし、獲った選手はみんな気になりますよ」とも語った。四国IL・香川の監督に就任…「いかに選手にやる気を出してもらうか」 2025年からは地元・香川に戻ってオリーブガイナーズ監督として全力を注いでいる。同チームの監督を香川出身者が務めるのは初めてのこと。初体験の監督業でもあるが、選手を育成し、地元に貢献したい気持ちでいっぱい。「コーチとは違うので、自分が判断してやらなければいけない。その中でいかに選手にやる気を出してもらうかも考えなければいけないと思っています」と気合も十分だ。 目標はチーム力アップであり、香川の選手を一人でも多く、NPBに送り込むことだ。「みんなそれを目指しているわけですからね。僕は長いこと、スカウトをしてきたので、やっぱりここまでやらないとNPBは無理だよ、というのはわかっている。それも踏まえてNPBに入るために勝負できるものは何があるのかとか、そういうことは突き詰めていかなきゃと、その辺は大事になってくるのかなと思っています」と力強く話した。 NPBに進める人材を育てながら勝つという新たな闘い。「まぁそれが一番のアレですけど、そう簡単にはいかないかなとは思っています。時間はかかると思います」と言うが、自身のこれまでのいろんな経験も生かしてトライしていく考えだ。香川では実家暮らし。「母(チカ子さん)は91歳と高齢ですけど、元気で食事も作ってくれるんですよ」と微笑む。香川の監督として頑張る姿を見せるのは親孝行でもあるだろう。 甲子園出場、大学日本一、日米大学野球主将、ロス五輪野球日本代表主将&金メダリスト、パ・リーグ新人王、スカウトとしても金子、才木らを”発掘”……。輝かしい実績を持つ熊野氏だが、ここまでの野球人生は決していいことばかりではなかった。27歳でプロ入りし、年齢的に全盛期も短かった。だが、そんな苦しい時期も含めて常に全力で走り抜けてきた。それはこれからも続く。まだまだ“大仕事”が待っている。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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https://www.npbhub.com/556368/ 長嶋監督に残留直訴も「お前はオリックスに帰す」 復活自信も…決まっていた巨人退団 | Full-Count ##プロ野球 #article #ORIXBuffaloes #PACIFICLEAGUE #PICKUP #オリックス・バファローズ #セ・リーグ #パ・リーグ #熊野輝光 #読売ジャイアンツ(巨人)
長嶋監督に残留直訴も「お前はオリックスに帰す」 復活自信も…決まっていた巨人退団 | Full-Count

元阪急・熊野輝光氏、巨人2年間在籍後にオリックス復帰 阪急時代に新人王に輝いた実績を持つ熊野輝光氏(四国IL・香川オリーブガイナーズ監督)は1994年から古巣・オリックスに復帰した。1991年オフにトレードで巨人に移籍して2シーズン後の“Uターン”。巨人2年目の2軍調整中に打撃復調の手応えをつかみ、長嶋茂雄監督に「来年(1994年)もお願いします」と“直訴”したが、かなわず。コーチ就任を求めるオリックス・井箟重慶球団代表に「何とか選手をやらせてください」とお願いし、選手として戻ったが……。【PR】盗塁王・近本光司を足元からサポート 中高生に勧めたい新スパイク「NEOCONNECT」 巨人移籍後の熊野氏は好成績を残せなかった。移籍2年目は故障にも見舞われ、8試合の出場で5打数無安打に終わったが、その時の2軍調整中に打撃について発見があったという。「ファームでは、ほっといてくれていたので、自分で考えて全部室内で練習ができた。その時になって“バッティングってこうだな”っていうものがやっとわかったんです。バッティングの本質というものをこれまでは理解できていなかったんです」。 それについて熊野氏はこう説明した。「バットを内から出すこと。インサイドアウトで出すこと。みんなよく言うじゃん。みんなわかっているつもりじゃん。でも実際にやれと言ったら、それができないのよ。でも本来はそれができれば、どこでも打てるんです。内からバットを出していたら、アウトコースでもヘッドさえ返らなければパチンと捉えられる。インコースもそう。悪くてもそうやっていたらファウル。だから何回も勝負できる形にもなる」。 速い球でも変化球でも対応可能という。「変化球が来たら、その時はもうひとつ内からグッと力を入れたら、ヘッドスピードが遅くなるから、それで持っていける。そういうヘッドを返さない、インサイドアウトでバットを出すというのが基本なんです。そういうことを常に考えること。それが巨人の2年目にわかったんです。もちろん、わかっていても、できる、できないがあるし、これに読みとかいろんなものが重なってくるんですけどね」。 残念ながら1軍から声がかからなかったが「その年の後半にはこれをやっていけば、まだまだやれるなというものはできていた。翌年、もしやらせてくれるなら勝負できるなと思っていました」という。そんな中で浮上したのがオリックス復帰話だった。「井箟さんから“帰ってきてコーチをやれ”って言われました。(阪急OBの)山田久志さんも呼ぶことになっているんだってね」。打撃復調に手応えをつかんでいただけに現役引退に納得できなかった。イチローの打撃に受けた衝撃「これは凄い選手になる」「それで長嶋さんのところに行って『来年も(巨人で)お願いします』と訴えたんです。そしたら『いや、お前はオリックスに帰さなければいけない。そういうふうになっているんだよ』って……」。すでにオリックスとの話が出来上がっていた。古巣復帰しか道はなかった。「だから最終的には井箟さんに『僕は来年10年目です。何とか選手をやらせてください。それで駄目だったらコーチになります』とお願いしました。で、『わかった』と言ってくれたんです」。 背番号は5になった。選手としてもう一度勝負するために再びオリックスのユニホームを着た。しかし、現実は甘くはなかった。1軍の仰木彬監督に戦力としてみなされなかった。「それなりに自信はあった。3回打席に立てば、2回は確実に芯で捉えられるなっていうものもあったし、上でもやれると思っていたんですが、呼んでくれませんでしたね。まぁチームが強くなっていった時だったんでね。(外野手には)イチローや藤井康雄とかもいたし……」。 とりわけ、イチローには衝撃を受けたという。登録名が鈴木一朗からイチローに変わったばかりの頃だ。「打撃に関して僕が巨人の2年目にやっとわかったことを、もうイチローはできていたんですよ。そのバッティングを見て『今まで自分ができなかったことを、こいつは弱冠20歳で、もうやれている。ここからさらに極めていくのだろうし、これは凄い選手になるんやろうな』って思いましたもんね」。 1994年、イチローが210安打を放ち、大ブレークした一方で、オリックス復帰の熊野氏は1軍出場なしに終わった。シーズン途中から2軍コーチも兼任し、現役引退を決意した。「若い時にバッティングの本質がわかっていたら(野球選手としての)寿命も延びたし、もっと技術も上がっていたでしょうけどね」。社会人野球・日本楽器(現ヤマハ)から27歳で阪急入りし、新人王も受賞した強打、俊足、強肩の外野手は通算10年でプロ現役生活にピリオドを打った。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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https://www.npbhub.com/556072/ “リスト落ち”寸前だった阪神エース「切ろうかなと」 スカウト疑問も…3位指名の舞台裏 | Full-Count ##プロ野球 #article #CENTRALLEAGUE #HanshinTigers #PICKUP #セ・リーグ #才木浩人 #熊野輝光 #阪神タイガース
'リスト落ち'寸前だった阪神エース「切ろうかなと」 スカウト疑問も…3位指名の舞台裏 | Full-Count

熊野輝光氏はオリックス退団後、2012年に巨人スカウトを務めた 1985年パ・リーグ新人王外野手の熊野輝光氏(元阪急・オリックス、巨人外野手、現四国IL・香川オリーブガイナーズ監督)は2013年から2024年まで阪神スカウトを務めた。2024年に13勝3敗、防御率1.83の成績を挙げるなどエース格に成長した才木浩人投手は担当して獲得した選手だ。「実はドラフトの年(2016年)の1月に候補のリストから切ろうかと思っていたんですよ」。それが突然「変わった」という。【PR】盗塁王・近本光司を足元からサポート 中高生に勧めたい新スパイク「NEOCONNECT」 熊野氏は2010年限りでオリックスを退団した。スカウト部長を務めていたが、その年の12月に来季契約を結ばないことを通達された。「翌年(2011年)は1年間“留年”したんです。その年は(古巣の)ヤマハ(旧名称・日本楽器)で臨時コーチという形でやらせてもらいました。で、その次の年(2012年)にジャイアンツ。巨人のスカウト部長だった山下(哲治)さんに尽力していただいたんです」。 大阪駐在の巨人スカウトを任されたが、1年で終了となった。「(2012年9月に阪神GMに就任した)中村勝広さんから『お前、何してるんや』って電話がかかってきた。(熊野氏がオリックス時代の2004年ドラフト自由枠で)金子(千尋投手)を獲ったのも(当時オリックスGMの)中村さんとだったしね。『今、ようやくジャイアンツに入ってスカウトをやらせてもらっています』と言ったら『そうか、よかったな』って。それだけだったんですけどね」。 事態は思わぬ方向に進んだ。「(阪神の)その年のジャイアンツとの最終戦、東京ドームで中村さんが巨人の代表に『熊野をくれませんか』と言ったみたいなんです。僕は全然そんなこと、知らなかったんですけどね。それで『熊野は阪神とできていたんじゃないか』と疑われた。ドラフト前から来なくていいってなって……。僕は『そんなことはないので阪神を断ってください』と言ったんですけど、わかってもらえなくて……。まぁ、巨人、阪神ということもあってね」。 助けてくれたのは中大の先輩で、巨人・阿部慎之助捕手(現巨人監督)の父・東司さんだった。「慎之助のオヤジさんは当時の巨人の代表とすごく仲がよくて、僕が事情を説明したら『分かった』って言ってくれたんです。それで話してもらって、誤解が解けました。(スカウト部長の)山下さんからも『すまなかったな』って電話をもらいました。だけど、もう帰りにくいじゃないですか。結局、阪神に行くことになったんです」。阪神スカウトで才木浩人を担当…一度は候補リストからの削除も検討 そんなことを経て2013年から熊野氏は阪神スカウトとして動き出した。2024年まで務め、その間に担当した選手の1人が才木だ。2016年ドラフト3位で獲得した。神戸市立須磨翔風高の右腕には早くから着目していたという。「でもね、ドラフトの年の1月なんかは、もう候補リストから切ろうかなって思っていたんですよ」と明かす。「140ちょっとは投げていたけど、アーム式で投げ方が悪くてね。どこの球団のスカウトも『これじゃあねぇ』みたいな感じだったんです」。 それが変わった。「切ろうかなと思いながら、もう1回、2月に見に行ったら、全然、投げ方が良くなっていた。もう素晴らしく肘も使えるし、真上から、指にかかったボールがピシャーっと来る。剛球。ガーンと来るピッチャーで、もう全然変わった。これならちょっと上にも見せようと思った。で『これはいいね』って、なったんです」。その後もマークを続け、ドラフト3位での獲得に成功したわけだ。「でもね」と熊野氏は苦笑しながら、こう続けた。「才木はね、目茶苦茶、練習するんですよ。もうホントに野球しかないってくらい練習好きで、いろいろ自分で考えながらやったりするんです。で、ドラフトにかかったオフ、1月に来た時に見たら、また全然変わっていたんですよ。悪い方にね。えーってなりましたよ。『お前、なんやそれ』ってね。それで、僕もずっとつきっきりで……。あの時も大変でしたよ」。 才木はプロ1年目の2017年シーズン終盤、1軍で2試合に投げた(0勝0敗1ホールド)。「ファームでいろんなことをやって、だんだんフォーム固めもできてきて、それを金本(知憲)監督が見て、これ、やれるねって感じで最後に使ってくれたんですよね」と熊野氏は振り返る。その後、才木は右肘を痛めて2020年にトミー・ジョン手術を受けたが、2022年に復活。2023年8勝、2024年13勝と前進を続けている。「プロに入って思った以上に腕の振りが良くなって、指のかかりもよくなって、やっぱり負担はきていたんでしょうね。それで手術しましたけど、よくなりましたからね。やっぱり、あの子はね、ほっといてもやるんでね。(術後の)リハビリもホント完璧にやってきたんですよ。まぁ、今後も、変にやりすぎてまた負担をかけないように、っていうのはあるんですけど、いろんなことも、もう彼はわかっていますからね」 才木の成長は熊野氏にとって楽しみの1つ。「去年(2024年のプレミア12で)日本代表のピッチャーにもなってくれましたしね。それもまたいい経験になったと思いますよ」と目を細めた。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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https://www.npbhub.com/555462/ 岡田監督が憮然「大失敗、情報不足よ」 史上初”1位クジ3連敗”…退団になったスカウト | Full-Count ##プロ野球 #article #ORIXBuffaloes #PACIFICLEAGUE #PICKUP #オリックス・バファローズ #パ・リーグ #熊野輝光
岡田監督が憮然「大失敗、情報不足よ」 史上初'1位クジ3連敗'…退団になったスカウト | Full-Count

熊野輝光氏はオリックスのスカウト時代に西勇輝獲得に関わった 四国IL・香川オリーブガイナーズ監督の熊野輝光氏(元阪急・オリックス、巨人外野手)は1997年からオリックスでスカウトになり、多くの選手を発掘した。スカウトグループ副部長だった2008年は三重・菰野高の西勇輝投手(現阪神)の獲得にも担当の安達俊也スカウトとともに尽力。2009年には部長に昇進した。しかし、2010年に退団。これには、その年のドラフトで1位指名が3連続でクジになり、すべて外れたことが関係していたという。【PR】盗塁王・近本光司を足元からサポート 中高生に勧めたい新スパイク「NEOCONNECT」 熊野氏は2004年ドラフトでオリックスが自由枠で獲得した金子千尋投手(現・日本ハムファームコーチ)の担当スカウトだったことでも知られるが、2008年ドラフト3位・西の獲得にも関わった。当時は副部長の立場。「西は(担当の)安達(スカウト)と一緒に獲った選手ですけどね」と懐かしそうに話した。「あの時は(スカウトの)みんなで(1位の)多数決をとったんです。で、僕は西を1位。あとの全員が(東海大三の右腕)甲斐(拓哉投手)でした」。 そしてオリックスは甲斐を1位で指名した。「甲斐は150キロを投げていましたからね」。2位も関西国際大学の左腕・伊原正樹投手になった。「これで西はヨソに獲られると思っていたら、3位の時に残っていた。えっと思いましたよ。すぐ行きましょうって言いました。体さえできたらすぐ投げられますから、コントロールがよくてフォームも直すところがないからってね」。 オリックス入り後の西は顔面麻痺を発症して苦しんだ時期もあったが、それを乗り越えて、3年目に2桁勝利をマークするなど、オリックスの主力投手として活躍した。2018年オフにはFAで阪神に移籍。その時、熊野氏が阪神スカウトという“縁”もあった。実力があっても怪我に泣いたり、プロで成功する選手はほんの一握りの厳しい世界。そのなかで関わった選手が大成するのはスカウトとして最大の喜びだ。「西はホント、頑張ってくれてねぇ」と目を細めた。史上初の3連続1位クジ外し…2010年ドラフト後にオリックスを退団 2009年から熊野氏はオリックスのスカウトグループ部長に昇進したが、わずか2シーズンでその役目を終えた。2010年のドラフトを最後に退団した。「『誰が責任をとるんや』ってなった時に、結局、僕になったって感じですね」。これには、その年のドラフト1位指名で、オリックス・岡田彰布監督がクジを引き、史上初の3連続外れとなったことが関係していたという。 最初に6球団競合の早大・大石達也投手のクジに敗れた(西武が交渉権を獲得)。続いて“外れ1位”の東海大・伊志嶺翔大外野手もロッテと競合して獲られた。さらに“外れの外れ1位”の履正社・山田哲人内野手もヤクルトとの抽選に敗北した。オリックスは“外れの外れの外れ1位”で「上州のイチロー」と呼ばれた前橋商の後藤駿太外野手(現中日)を指名したが、岡田監督は3度も競合したことに「大失敗。情報不足よ」と発言した。「あの時、僕らは席についているでしょ。で、終わったら帰ってくるでしょ。普通はご苦労様って感じになるんだけど、村山(良雄)球団本部長も岡田監督も、もう先に帰っているんやから……。そんなのも前代未聞だった。僕はあの時『これはいくら何でもチームとしておかしいんじゃないか!』って言っていたんですけどね……。で、村山さんが決めたようですけど、僕が退団することになったんです」 オリックスを去った熊野氏は2011年、古巣のヤマハ(旧名称・日本楽器)で臨時コーチを務めた。2012年は巨人の大阪駐在スカウト。2013年からは阪神のスカウトと立場が変わった。まさかの“クジ3連敗”が野球人生の流れも変えてしまった形だった。「でも、後藤をすぐ使ってくれたからね」。後藤は「駿太」の登録名で2011年、NPBの高卒新人外野手では52年ぶりの開幕スタメンデビューを果たした。それも熊野氏にとってはうれしい出来事だった。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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https://www.npbhub.com/555343/ ドラ1指名も断固拒否、面会すらできぬ”惨敗” スカウト沈痛…幻に終わった奥の手 | Full-Count ##プロ野球 #article #ORIXBuffaloes #PACIFICLEAGUE #PICKUP #オリックス・バファローズ #パ・リーグ #熊野輝光
ドラ1指名も断固拒否、面会すらできぬ'惨敗' スカウト沈痛…幻に終わった奥の手 | Full-Count

熊野輝光は1997年からオリのスカウト…2000年ドラ1の内海に入団拒否された 元阪急外野手で1985年パ・リーグ新人王の熊野輝光氏(四国IL・香川オリーブガイナーズ監督)は1994年にオリックスで現役引退し、2年間の2軍コーチを経て1997年からスカウトに転身した。多くの選手を獲得したが、いいことばかりではなかった。最初の苦い思い出は2000年ドラフト1位の敦賀気比・内海哲也投手に入団を拒否されたこと。巨人志望の左腕で苦しい闘いは覚悟していたが「指名後は会うこともできなかった。つらかったですよ」と話した。【PR】盗塁王・近本光司を足元からサポート 中高生に勧めたい新スパイク「NEOCONNECT」 熊野氏がオリックススカウト1年目に担当したのは1997年ドラフト2位・前田和之投手(日本通運名古屋)と同6位・永田能隆投手(北陸銀行)。「この2人から始まって、オリックスで担当して入った選手は17人かな」。1999年は1位(逆指名)の山口和男投手と4位の岩下修一投手をいずれも三菱自動車岡崎から獲得した。「山口は(元編成部長で)亡くなった三輪田(勝利)さんが道をつけていた投手。それで何とか(逆指名で)獲れたんですけど、あの時はジャイアンツが後からきて大変だった。(巨人を応援する財界関係者が集まる)燦燦会が出てきて……。山口はホント球が速かったですからね。まぁ、いろいろありましたよ」。剛速球投手・山口は獲得できたからよかったが、ナンバーワンと評価しながらフラれた苦い思い出もある。それが2000年ドラフト1位の内海だ。 ドラフト前に巨人志望を打ち出していた左腕をオリックスが強行指名。結果、入団を拒否された。その後、内海は社会人野球・東京ガスを経て、2003年のドラフト自由枠で巨人入りを果たした。熊野氏は2000年ドラフトについて「指名しても難しいということは、もちろん球団には伝えていましたよ。でも、それでも行けってなった。オーナーからもOKが出た。それで指名したんですけどね」と振り返った。「イチローをバックに投げてみないか」も“幻”に… オリックスは1998年ドラフト1位で沖縄水産・新垣渚投手を指名したが入団拒否され、担当だった三輪田スカウトが亡くなるという悲劇もあった。内海指名はわずか2年後のことだった。「あの時のウチの評価は内海がナンバーワンだったということもあったし、もしかしたら来てくれるのではないかというのも多少ありました」と熊野氏は付け加えたが、実は内海を口説く上で誤算もあったという。「内海には早くから(調査に)行っていたし、ドラフト前の最初の頃は『(オリックスの)イチロー(外野手)をバックに投げてみないか』とかイチローの名前を出していたんです。そしたら、その年にイチローが(メジャー移籍でオリックスから)出るとなって、おいおい、これまた困ったな、みたいになったんですよ」 イチローがポスティングシステム(入札制度)を利用してのメジャー挑戦を表明したのは2000年10月12日。その後、マリナーズへの入団が決まったが、内海獲得を狙う熊野氏にとっては奇しくも“逆風”になったわけだ。そして、ドラフト会議での強行1位指名。交渉難航、苦しい闘いは目に見えていたが、担当スカウトとして全力を尽くさなければならない。腹を括って学校に向かったが、予想通りどうしようもなかったという。「ドラフトからずーっと行きましたよ。気比に。毎日、行ったけど監督も出て来ない、内海も出て来ない、練習に。だから会うこともできなかった、記者さんも来ていたんですけどね。あれはつらかった……」。内海は東京ガス入りを決めて、オリックスも早々に獲得断念を表明した。内海の野球人生に関わる指名だっただけに後に巨人で活躍したことには安堵したが「まぁ、そういうことも経験しましたね」。熊野氏は試練の日々を思い出したのか、何とも言えない表情だった。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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https://www.npbhub.com/554930/ 「なんでダルビッシュにいかなかった」 ドラフト直前の”内紛”…怪我疑惑で自由枠の撤回要望も却下 | Full-Count ##プロ野球 #article #ORIXBuffaloes #PACIFICLEAGUE #PICKUP #オリックス・バファローズ #パ・リーグ #熊野輝光
「なんでダルビッシュにいかなかった」 ドラフト直前の'内紛'…怪我疑惑で自由枠の撤回要望も却下 | Full-Count

オリは2004年ドラフト自由枠で金子千尋を獲得…熊野輝光氏が担当スカウトだった オリックスと近鉄の合併が決まった2004年のドラフト会議で、オリックスは自由獲得枠でトヨタ自動車の金子千尋投手(現・日本ハムファーム投手コーチ)を獲得した。後に大エースとなる右腕の担当スカウトが熊野輝光氏(元阪急・オリックス、巨人外野手、現・四国IL・香川オリーブガイナーズ監督)だ。「あの時は大変でした。ドラフト直前に球団社長が自由枠をやめると言い出して……。僕は辞表を持っていきました」と当時の騒動も振り返った。【PR】盗塁王・近本光司を足元からサポート 中高生に勧めたい新スパイク「NEOCONNECT」 1997年からオリックスのスカウトとして熊野氏は多くの人材を発掘した。その中でも「思い出深いですよ」と口にしたのが2004年の金子獲りだ。「あの年は近鉄との合併があって、(近鉄エースの)岩隈(久志投手)も入るし、チームも強くなるので最初は(2人まで獲得可能な)自由枠を使うのはやめて、3位(1巡目)からにしてくれということだったんです。それでJR東海の光原(逸裕投手)を最初の順位で行こうと決めていました」。 当時のドラフトは大学、社会人対象の自由獲得枠が最大2枠。自由枠を1人も使わなかった場合は1巡目(選手重複の場合は抽選)と3巡目で指名ができ、自由枠を1枠だけ使用の場合は次の選手を2巡目で指名。2枠とも使用の球団は全球団が指名可能な4巡目から参加という方式だった。「そしたら岩隈が(オリックスではなくて)楽天に行くという話になったので、1位(自由枠)からいっていいに変わったんです」。 とはいえ、有力選手はすでに他球団に押さえられている。「『誰かいないか』って話になって、僕が金子の名前を出しました。『青田買いになりますが、絶対出てきますから、今獲っておきましょう。トヨタでは実績も何もありませんが、絶対出てきますから行ってくれませんか』ってね。トヨタ側も(金子をプロに)出すつもりはなかったんだけど、1位(自由枠)なら本人や親とも相談しないといけないとなった。本人も行きたいということで獲ることが決まったんです」。 熊野氏は金子を長野商時代からマークしていた。「長野商の監督が中央(大)の先輩だったしね。で、トヨタに入った時の監督も(熊野氏の日本楽器時代の監督で恩師の)川島(勝司)さんだったし……。試合での実績はまだなかったけど、ブルペンで見たら、とんでもないボールを投げていた。肘のしなりがすごくて、ムチみたいにピシャって。ボールはどこまでもシャーって。糸を引くようなボール。何で、試合で投げさせないのかなって思ったくらいでした」。仰木監督から「何でダルビッシュに行かなかったんだ」 それが一転してドラフト前に“大騒動”となった。「金子の右肘の靱帯の裏側はもしかしたらボロボロかもしれないという診察結果をトヨタが出してきた。ネズミ(遊離軟骨)が痛いというのはあったけど、それは取ればいいだけのこと。でも1位(自由枠)なので球団に報告したら小泉(隆司)球団社長が『駄目だ』って言い出したんです。それで金子を呼んで須磨の病院で検査させて『別にそういうことはありません』となったんですけど、社長はおさまりがつかなくて……」。 小泉社長はNPBにも自由枠適用の撤回を要望。すでに自由枠での獲得が決まった状況であり、却下される事態も起きた。「オーナーが金子獲得にOKを出してくれて社長もおさまったらしいですけど、僕はあの時、ボロクソ言われました。もう辞めさせてくださいって、球団に辞表も持っていきました。(GMの)中村(勝広)さんに『待て、待て』と言われて、残りましたけどね」と熊野氏は今でも悔しそうに話した。 翌2005年のコーチ会議では仰木彬監督にも厳しく言われたという。「会議でスカウトが新人のことを説明するので、僕が金子のことを話したら、仰木さんが『何でウチは金子だったんだ。何で(日本ハムが1巡目で指名した)ダルビッシュ(有投手)にいかなかったんだ』って。ダルビッシュに関しては会社が駄目だということで行かなかったのに、仰木さんが言い出したら、最初、誰も何にも言ってくれなかったんですよ」と熊野氏は苦笑する。「えーっ、誰も助けてくれないのって思っていたら、中村さんが『金子は絶対出てくるピッチャーなんで』って言ってくれたんですけど、大変だったです。1時間くらい、僕は立ったままでした。中村さんにはその後『ピッチングコーチやトレーナーとかと話して、1年間の金子のスケジュールを作れ』と言われました。1年目は体作りでしたけど、内筋を鍛えるとかトレーニングのことまで僕が書きました。いちいち上にこういう計画で行きますと報告しながらね」。 金子はその後、最多勝、最優秀防御率、最多奪三振、沢村賞、最優秀選手など多くのタイトルも獲得し、球界を代表する投手に成長していった。熊野氏の見立てに間違いはなかった。「体ができて投げられるようになったら『おい、すごいボールを投げるやないか』といろんな人に言われましたからね。僕もこれだったら、スカウトをやれるなって自信もつきましたよね」。もちろん、金子の頑張りに感謝している。「ホント思い出深いですよ」と微笑んだ。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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https://www.npbhub.com/552306/ 新人王から6年で巨人へ放出 オリックスから”拒否”も…感謝した監督の根回し | Full-Count ##プロ野球 #article #CENTRALLEAGUE #PICKUP #YomiuriGiants #オリックス・バファローズ #パ・リーグ #熊野輝光 #読売ジャイアンツ
新人王から6年で巨人へ放出 オリックスから'拒否'も…感謝した監督の根回し | Full-Count

元阪急・熊野輝光氏、6年目に野茂英雄から生涯の思い出に残る一発 27歳で阪急入りした元新人王外野手の熊野輝光氏(四国IL・香川オリーブガイナーズ監督)はプロ7年目の1991年オフに巨人に移籍した。勝呂博憲内野手との1対1の交換トレードだった。球団が阪急からオリックスに変わった1989年以降、出場機会は減少していた。トレードはオリックス・井箟重慶球団代表に呼ばれて正式に通告されたが、実はそれ以前に土井正三監督から「『ジャイアンツで勉強してこんか』と言われていた」という。【PR】盗塁王・近本光司を足元からサポート 中高生に勧めたい新スパイク「NEOCONNECT」“オリックス元年”の1989年、プロ5年目の熊野氏は71試合の出場に終わった。当時の上田利治監督の起用法はシビアだった。チームには南海からベテラン大砲の門田博光外野手がトレード加入、藤井康雄外野手、本西厚博外野手、南牟礼豊蔵外野手らの台頭もあって、熊野氏の出番は減った。開幕から3試合連続で守備だけの出場で、4戦目に代打でシーズン初打席を迎えた。4月にスタメン機会はゼロだった。 目立ったのは西武戦での出場だ。相性のいい渡辺久信投手と郭泰源投手がいたからなのは明白で、熊野氏も「そういうことでしょうね」と話す。この年の初スタメンは「6番・左翼」で出た5月2日の西武戦(西武)だったが、相手先発は渡辺久。翌3日もスタメン出場したが、相手先発は郭泰源だった。熊野氏もまた相性通りに結果を出した。渡辺久が先発した時にスタメンで出て、渡辺久が降板した途端に交代したこともあった。 6年目の1990年は打率.246、6本塁打、27打点、12盗塁。与えられた仕事に全力で取り組み、数字を少し取り戻したが、熊野氏にとって満足できるものではなかった。その中で印象深いのは7月7日の近鉄戦(西宮)で野茂英雄投手から放った3号ソロという。「野茂は(ドジャースなど)メジャーであれだけのピッチャーになったんで『俺は、あの野茂からホームランを打った』ってずっと言っていましたからね」と笑う。「打ったのは真っすぐです。野茂のフォークは打てませんからね。真っすぐもいつも詰まっていたんです。だから前で、前で、っていう感じね。真ん中ちょっとインコースより。甘いところに投げてくれましたね」。七夕に飛び出した思い出の一発だった。ちなみに、この年の9月9日の西武戦(西宮)で森山良二投手から打った6号ソロが熊野氏の通算50号。結果的には、それが現役ラスト本塁打となった。「以前から『ちょっとジャイアンツに行って勉強してこんか』って」 1990年限りで上田監督が退任。1991年シーズンから巨人V9戦士である土井氏がオリックス新監督に就任した。熊野氏は少年時代、巨人ファンで、なかでも一推しは土井内野手だった。「僕にとっては憧れの人でもあったし、ちょっとワクワクしたんですけどね」。だが、出場機会はさらに減って45試合の出場で82打数17安打の打率.207、0本塁打、1打点、2盗塁。オフには巨人へのトレード移籍が決まった。 これについて熊野氏はこう話す。「以前から土井さんには『お前、ちょっとジャイアンツに行って勉強してこんか』ってチラっと言われていたんです。それはそれでとても感謝していますよ。上田監督の時にも当時ジャイアンツのヘッドコーチだった近藤昭仁さんに『お前のトレードをちょっと言ったんだけど(オリックスが)うんと言わなかったわ』とか言われていた。それを土井さんがやってくれた。トレードならセ・リーグに行ってみたいというのもあったのでね」。 正式には兵庫・芦屋市内で井箟代表からトレードを通告されたという。「確か選手会のゴルフをやっていた日の夜に呼ばれたんです。それより前に土井さんになんとなく言われていたし、すぐにトレードかなと思いましたけどね。井箟さんだったと思うけど『巨人にどうや』と聞かれたので『行けと言われたら行きます』と返事しました」。西宮に家を構えていたが、東京には単身ではなく、家族で引っ越した。「巨人には大学時代から知っている(1歳年下の原)辰徳もいたし、篠塚(和典)は同学年だったしね。実際、2人にはとても世話になりました」と熊野氏は言う。「家探しをする時には辰徳の関係で、菅野(智之投手)のお父さんが車を運転してくれて、いろんなところを見せてくれたんですよ。菅野のお父さんは当時、不動産会社に勤めていたのでね。篠塚のところとは家族ぐるみの付き合い。篠がいたのはホント大きかった。いろいろと助かりましたよ」。 プロ8年目、35歳になる年での新天地。藤田元司監督率いる巨人には阪急時代の先輩・簑田浩二氏が1軍総合コーチで、香川の大先輩・中西太氏も1軍打撃コーチだった。選手にも、金メダルを獲得した1984年のロサンゼルス五輪で一緒だった宮本和知投手や上田和明内野手がいた。背番号は「2」。いろんな縁も感じながら、熊野氏の初のセ・リーグ生活はスタートした。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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https://www.wacoca.com/news/2407285/ 指名拒否で「二度とプロはないと思え」 激怒した監督…”引き金”は強引勧誘「嫌だな」 | Full-Count #Article #PICKUP #Sports #スポーツ #セ・リーグ #プロ野球 #東京ヤクルトスワローズ #熊野輝光 #独立リーグ・アマチュア #社会人野球
指名拒否で「二度とプロはないと思え」 激怒した監督…'引き金'は強引勧誘「嫌だな」 | Full-Count

熊野輝光氏、中大時代にヤクルト3位指名を拒否し日本楽器へ 外野手として阪急などで活躍した熊野輝光氏(四国IL・香川オリーブガイナーズ監督)は中大4年の1979年のドラフト会議でヤクルトから3位指名を受けた。プロ入りか、社会人入りか、大いに悩んだ結果、ヤクルトを拒否、日本楽器(現ヤマハ)入社の道を選んだ。「足と守りには自信があったけど、打つことに関してはあまり……」。高校時代のライバルの存在、さらにはヤクルト・武上四郎監督からの言葉も、この決断の理由になったという。【PR】盗塁王・近本光司を足元からサポート 中高生に勧めたい新スパイク「NEOCONNECT」 熊野氏は中大で1年春から4年秋まで全試合に出場。1977年の2年時にはリーグ首位打者を争い、1979年の4年時には主将を務めて、チームを引っ張った。日米大学野球の日本代表の主将も任された。守備位置は遊撃、三塁を経て最終的には外野手となったが、強肩、俊足、巧打の選手としてプロからも注目された。多くの社会人野球チームからも声がかかった。進路に結論を出さないままドラフト会議を迎え、ヤクルトから3位指名を受けた。「あの時はプロも考えました。ただ、プロに行っても僕の力で、とも思った。4年の時に(打撃)成績はそんなによくなかったんでね。足と守りくらいなら自信はありましたよ。だけど打たなきゃ意味がないので……。打つ方は1、2年の時はよかったけど、3、4年になったら、どんどん尻すぼみになっていましたからね。まぁ、いいピッチャーが増えたのもあったんでしょうけどね。それに大学の時はホントに練習をしていなかったですからねぇ……」 プロ入りに積極的になれなかったのは、高校時代のライバルであり、高知高から1975年のドラフト1位でヤクルトに入団した杉村繁内野手がプロで苦しんでいたこともあった。「高校の時の杉村は(長距離砲で)すごかったですからね。それがプロではバットを短く持って、なかなか試合にも出られないような感じ。あの杉村でさえ、そうだから、やっぱりプロってすごいんだなぁって思ったし、僕なんかまだまだ力不足だと思いました」。 ヤクルト・武上監督は猛烈なアプローチをかけてきたという。「『お前、明日から神宮の近くにアパートを借りて、練習に出て来い』って言われたんです」。それが逆に熊野氏をプロ拒否の方向に進ませた。「僕は悩んでいるのに、なんてデリカシーがないんやろって思いながら『いや、そこまでやれる自信が……』と答えたら『何言っている。俺が鍛えてやるから。練習を、めちゃめちゃしてやるから』みたいに言われて『あ、この人はちょっと嫌だな』って思っちゃったんです」。「自信を持ってプロに行くという選択肢もある」に「あっ、そうか」 社会人野球入りを決意した。ドラフト前は香川出身ということで社会人なら地元の電電四国入りを考えていたが、最終的には中大ともルートがある日本楽器入りを選んだ。「日楽は川島(勝司)さんが監督で相当、熱心に僕のところに来てくれていたんです。(進路を)迷っていた時も『ウチに来て力をつけて、自信を持ってプロに行くという選択肢もあるよ』って言われて“あっ、そうか”ってなりましたね」。 父・良治さんも背中を押してくれた。「最初は『(四国に)帰ってこい』と言っていましたが、最後は『お前に任せる』って。で、(中大監督の)宮井(勝成)さんに『日楽に行きます』と言いました。周りには『なんでプロに行かないんだ、行けばいいのに』って言う人もけっこういましたけどね」。 ヤクルト・武上監督にも断りを入れた。「最後、武上さんに『お前、それやったら、もう二度とプロはないと思え』って言われて、逆に“2年後、絶対プロに行ったる”と思いました。2年後には行けなかったけど、奮い立たせてくれました。(のちに)僕がプロ(阪急)に入ってからも武上さんは口を利いてくれませんでしたけど、いつだったかどこかでお会いした時に『お前、よう頑張ったなぁ』って言われた。あの時は何かホッとしたのも覚えていますね」。 同学年の早大・岡田彰布内野手が6球団競合の末、阪神にドラフト1位で入団。中大の同学年エース・香坂英典投手はドラフト外で巨人入りした。そんな中でのプロ拒否だったが「それは間違いではなかったと思うんですけどね」と熊野氏は話す。あの時、ヤクルトに入っていたら、また違う野球人生になっていたかもしれない。大きな決断でもあった。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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https://www.wacoca.com/news/2402724/ 父が勝手に”プロ行き拒否”「息子は進学します」 引退視野も、突然決まった中大行き | Full-Count #Article #PICKUP #Sports #オリックス・バファローズ #スポーツ #パ・リーグ #プロ野球 #熊野輝光
父が勝手に'プロ行き拒否'「息子は進学します」 引退視野も、突然決まった中大行き | Full-Count

熊野輝光氏が選抜大会で度肝抜かれた右腕「すごい投手がおるんやなって」 知らないうちに大学進学希望になっていた。現役では新人王に輝き、スカウトとして多くの選手を発掘した熊野輝光氏(四国IL・香川オリーブガイナーズ監督)は1975年の志度商3年に選抜大会出場を果たしたが、1回戦で敗退。夏は北四国大会準決勝で敗れた。プロ注目の左のスラッガーだったが、野球から離れて就職するつもりだった。それが一転して中大へ。「周りから固められた」という。【PR】盗塁王・近本光司を足元からサポート 中高生に勧めたい新スパイク「NEOCONNECT」 1974年秋の四国大会準優勝で評価され、志度商は1975年に34年ぶり2度目の選抜出場を果たした。目標の甲子園出場に強打の遊撃手・熊野氏も気合が入ったが、本番ではいつものプレーができなかった。1回戦で広島工に1-8で完敗。相手エース・小林誠二投手(元広島、西武)に5安打1点に封じ込まれた。「初めて見ましたね。シュートでプッと浮き上がってくるのを。すごいピッチャーがおるんやなって思いました」。 甲子園の独特なムードにも圧倒された。「緊張して何かボールが手に付かなかった感じでした。上の空でやっていたみたいな。ショートゴロをファーストへ大暴投してしまったし……。打席も何かようわからないうちに終わっていましたね」。志度商・鎌倉孝一監督からは「土なんか持って帰るな! 夏に来ればいいんだ!」と言われた。「帰ってからはスパイクについた土を取ったりしましたけどね。まあ香川県では夏も絶対勝てるっていう自信はありましたけどね」。 3年夏。香川大会はきっちり突破した。だが、北四国大会準決勝で1学年下の続木敏之捕手(元阪神)がいた新居浜商に3-4で惜敗した。志度商は初回に3点先制したが、6回に2点、7回に1点を失って追いつかれ、9回に勝ち越されての負けだった。熊野氏は無念そうに「僕が打ったヤツはホームランだったのにツーベースになったんですよ」と振り返った。「高松球場の(外野フェンスに)ラインが引いてあってそれより上だったらホームランで、僕のは越えていたんですけど、当たりがよすぎて跳ね返ってきて……。2打席目だったかなぁ。あれがホームランなら点数が違っていたんでねぇ」。もっとも、その瞬間は打った熊野氏も「打球が速すぎてどこに行ったかわからなかった」という。「あとで映像などを見てわかった。もちろん、もうどうすることもできなかったですけどね」。進路に悩むも…担当教諭から「大学に行くことになっているよ」 甲子園春夏連続出場の夢が断たれ、高校でのラストゲームを終えた熊野氏は「野球はもういいなって思っていた。社会人野球とかじゃなくて普通に就職しようと考えていた」と話す。俊足強肩強打の内野手としてプロからも注目される存在だったが、そう決めていた。だが、知らないうちに状況が変化していたという。「進路指導の先生に『就職したいんですけど、どうしたらいいですか』と聞いたら『君は大学に行くことになっているよ』って言われたんですよ」。 父・良治さんと志度商・鎌倉監督が大学進学のレールを敷き、学校側に伝えていた。「プロのスカウトもロッテとか何人か来られていたけど、僕は一切会わせてもらえなかったし、その時点でもオヤジは『息子は進学しますから』と言っていたみたい。周りを固められていた。僕はプロに行く気は全くなかったけど大学にも行きたくなかった。勉強もしたくなかったしね。それでオヤジとはよう喧嘩しました。最後はしょうがないかのかなぁってはなりましたけどね」。 プロ同様に大学からの誘いも多かった。「駒沢大(監督)の太田(誠)さんや亜細亜大(監督)の矢野(祐弘)さんはわざわざ家まで来てくれました。オヤジは太田さんにすごい熱心に言われたみたいです。矢野さんはグラブを持ってきてくれた。『好きなものを持ってきた』と言われたので、何やろなあと思ったらグラブ。それはあまり好きじゃないんだけどなぁなんて思いましたけどね」。そんななか、進路として決めたのは中大だった。 恩師である志度商・鎌倉監督が中大OBということが大きかった。「鎌倉さんに(中大監督の)宮井(勝成)さんが“セレクションによこせ、練習に来させい”みたいに言って、連れていってもらって(中大の)練習に出て、柵越えをガーンと打ったら『オー!』とか言われて、何かそれで決まりました。駒沢や亜細亜とかはオヤジが断ってくれた。のちのちですけど、オヤジは野球だけなら太田さんのところにやったんだけどなぁなんて言っていましたけどね」。 中大進学後も太田監督にはよく声をかけられたという。「駒沢と試合した時もそうだし、僕が社会人やプロに入ってからも『オヤジ元気かぁ』とか言ってくれました」。決めるまでにはいろいろあったが、結果的には中大を選択したことが、熊野氏の“その後”にもつながった。大学への道がなければ野球人生もそこで終わっていた可能性も十分にあっただけに「オヤジと鎌倉さんが道筋をつけてくれた。そういう意味では感謝しています」と話した。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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読売ジャイアンツ 背番号2の歴史 #吉川尚輝 #小笠原道大 #松本匡史 #shorts巨人の背番号2の変遷です1.矢島 粂安2.津田 四郎3.三好 主4.呉 新亨5.広岡 達朗6.矢部 祐一7.上田 武司8.大北 敏博9.松本 匡史10.簑田 浩二11.ブラッドリー12.熊野 輝光13.元木 大介14.小坂 誠15.小笠原 道大16.井端 弘和17.脇谷 亮太18.陽 岱鋼19.吉川 尚輝☆気に入っていただけたら高評価・コメント・チャンネル登録をお願いします☆http://www.youtube.com/channel/UCUG8n1U5yZKWOn5JJbf-vqw?sub_confirmation=1読売ジャイアンツ公式チャンネルhttps://www.youtube.com/channel/UCXxg0igSYUp0tqdd6luPEnQ

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