「自分で選びたい」というのは自分のこれまでの人生で結構大きな行動原理だったかもしれない。
もちろん受動的に選択したモノ・コトもたくさんあるし、何でもかんでも熟考して選んできたわけでは全然ないけど。
Web も黎明期から一時期までは「あなたには選択の自由があり、ここには様々な選択肢がある(あっていい)」という文化があったし、「自分で選ぶ人」をエンパワーする雰囲気があったけど、
#SNS #SocialMedia の力が強くなったり Google が don't be evil って言わなくなったあたりから「あなたが選ばなくても最良のものを勝手に選んでおくから、考えたり悩んだりしなくていいよ!これさえ使ってればすべてうまくいきます」みたいなサービスや触れ込みがメジャーになり、それとともにメディア構造も完全にそっちが優勢になっていったという感じがある。
選ぶことも選ぶために考えることもしなくなった人が感情に任せて他人の注意を引けばお金になるというプラットフォームがメジャーな世界で、
拡散も増幅もしない時系列の SNS とか、
北欧の小さな会社が作る AI 搭載に慎重なブラウザーソフトとか、
寡占状態のデザインツール業界でユーザーの選択肢を増やそうとチャレンジしたソフトフェアとか、
大きな企業が提供するツールを盲信して導入するよりオープンフォーマットを普及させる生きしが大事なんじゃないかとか、
そういうことを言ってみても全然響かないよなあーというのは実感しているけど、
アテンション・エコノミー全振りの大きな SNS から少し距離をとれば、自分と同じような課題感を持った人とか、そもそもそういういまの SNS になじめないという感覚を共有できる人もたくさんいて「世界は別に SNS で出来ていない」という感覚になれる。
SNS の影響を過小評価する気はまったくないし、むしろ大きすぎるぐらい世界に影響を持っている(持ってしまっている)とは思うけど、その状況を憂慮すればこそ「そこに対抗するためのインプレッション」みたいな発想を持つべきではないような気もしている。
インプレッションを獲得する結果として期待されていることって「そういう下駄を履いた状態の自分に対する周囲の目線がより自分に都合のいい方向に変わること」だと思うけど、人が自分をどう見るかなんて自分の都合通りになんてならないし、それは結局は「他人の課題」なので、
自分で考えて自分で選んだことに納得できて、近くに話ができる友達や家族とたまにポジティブな刺激をくれる Web 上の面白い人たちとのゆるいソーシャルグラフ(ここ)があれば、それで十分、自分は「ととのう」 